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CDAの学びから広がる人・地域とのつながり

2017年08月16日 17:20 by jcda-journal
2017年08月16日 17:20 by jcda-journal

多くの人の価値観を変えた東日本大震災から6 年。被災者の方からの1 通の手紙をきっかけに被災地への赴任を決心。そこから広がる人のつながり。
企業人として、そして個人としての思いに葛藤した日々、被災地で過ごした3 年間、そしてこれからを語っていただきました。



― キャリアカウンセリング(CDA)にご興味をお持ちになったきっかけについて教えてください。


2005 年春に、その前年、会社が導入した「キャリア開発」の研修を、45 歳という節目の年齢であったことから受講しました。自分の将来のビジョンに時間をかけて考えたのは初めてかと思います。研修では希望者に対するキャリアカウンセリングの場がありましたが、おぼろげながらもキャリア関係の仕事に興味を示した私に「キャリアカウンセラー」の資格があることをカウンセラーの方から教えていただいたのが、キャリアカウンセリングに興味を持ったきっかけです。
しばらくして、その「キャリア開発」の研修を担当するグループに異動となり、自分でもキャリアカウンセリングをする必要性を感じたり、CDA の資格を持っている人が同じ職場に転勤してきたり、さらにはキャリア開発の先駆け的な企業の方から、CDA の取得を勧められたりと、CDA を意識するようになったことから、養成講座の通学に通い始めました。

―CDA を取得してみていかがでしたか?また取得後はどの活動をされていましたか?

CDA を取得したのは2006 年です。取得後はさっそく、かつて自分が受けたキャリアカウンセリングを担当するようになりました。1 回だけ30 分の短い時間でしたが、相談に来てくれた人からは、今後会社でやりたいこと、定年後のライフプランなど、いろいろな話しを聞きました。すっきりした顔で部屋を出ていく人の顔を見ると、傾聴や共感などのスキルを使って、ご自身の中にある答えを導き出すプロセスを体感することができましたし、自分でも会社にどんな仕事があるのか、セカンドキャリアではどのようなことができるのかをいろいろと調べ、話しの引き出しを増やすよう努めました。

― その後、震災をきっかけに福島県に赴任されることになりますが、そこまでの経緯についてお聞かせください。

はじめに、当社の原子力発電所の事故から6 年が経った今も、多くの方が避難生活を続けられているなど、福島県のみなさまには大変なご迷惑とご心配をおかけしていることをお詫びいたします。
2011 年の震災時は、東京で内部監査の仕事をしていました。それまで福島県での勤務経験はありませんでしたが出張で出かけたり、家族と旅行に出かけるなどなじみがありました。特にサッカーのナショナルトレーニングセンター「J ヴィレッジ」には、一時期、初日の出を見るために毎年宿泊していました。
しかし震災後、テレビを通して伝わってくる現地からの映像(発電所の様子、避難されている方のお顔、無人と化した街の様子)には気持ちが大きく揺さぶられました。
初めて被災された方の声に接したのは、5月の連休前後に始まった避難された方へ賠償の仕事に関わった時のことです。
ある日、私の手元にまわってきた書類に一枚のメモが挟まれていました。読むと震災直前にマイホームを手にされた方で、中には「早く家に帰らせてください」との言葉が書かれていました。その一言にあらためて事故の重さ、被災された方の気持ちを感じるとともに、事故後の現地の様子をより身近に感じるようになった瞬間でもありました。
その後2 年間は、東京勤務ながら、現地における復興関係の業務にも参加しました。
避難されている方がいらっしゃる避難所のお手伝いにいった時は、当たり前の生活ができない避難生活のご不便さを肌で感じました。また、避難指示が出されている地での放射線の測定では、誰もいない街並みや、震災で傷んだ箇所を修理する時間もなくそのままになっている家々、津波により基礎しか残っていない建物などを目の当たりにしました。途中立ち寄ったJ ヴィレッジ(いわきから約30km、福島第一原子力発電所からはちょうど20km)は、事故を収束させるための拠点となったことで、青々と茂っていた天然芝のグランドはアスファルトと砂利が敷き詰められた駐車場に姿を変えていました。映像や話しで聞いていたものの、現実にその光景を前に声も出ず、自分にできることはとにかくやってみようと考えるしかありませんでした。
そして震災から2 年半経った2013 年10 月、正式に福島県に転勤することになったのです。

「初日の出」
今年の初日の出の写真です。場所は福島県楢葉町、赴任中はずっと現地で初日の出を見て、気持ちを新たにしていました。


― 福島県に転勤して担当された仕事の内容について教えてください。


福島県ではいわき市に赴任しました。「浜通り」と呼ばれる太平洋沿いの地域の南にあり、古くは石炭の街として栄えました。今もこの地域では最大の面積と人口を誇り、スパリゾートハワイアンズという観光の名所があるといえば、おわかりになる方もおられると思います。事故により避難指示が出された地域に近いことから、被災された方も多くおられます。
福島県は明治の頃から、水力、火力そして原子力、と首都圏の電気を支えてくれていました。事故後は、原子力発電所の廃炉、被災された方への賠償、除染、住民の方のご帰還や街づくりのための復興推進の仕事が加わり、私が配属されたのは復興推進の仕事に携わる部署でした。
復興推進の仕事の一部をご紹介すると、避難されている方々が将来お帰りになられたり、避難先から一時帰宅される際にご不便のないよう、自治体や住民のみなさまのご要望に応じて、住宅や公共施設の清掃や片づけ、道路や家周りの除草、農業の再開に向けた田畑がれきの撤去や動物よけの電気柵の設置、仮設住宅の除雪など多岐にわたります。
多くのご要望にお応えするために、私のように福島県に転勤してその仕事に携わる社員もいますが、それに加えて、首都圏をはじめとする各事業所の社員は、かわるがわる交替で被災地に伺い、現在も復興のお手伝いをさせていただいています。
私の仕事は、復興推進の拠点であるJ ヴィレッジで福島県に来る社員を受け入れて、実際に行う仕事の説明をし、そして現地に送り出すとことでした。

― 福島に来る社員の方への対応をされていたとのことですが、社員の方々はさまざまな思いをお持ちだったのはないでしょうか。

ベテラン社員から震災後に入社した若手社員まで、あらゆる部門の社員が福島県にやってきます。私が担当していた当時は、福島県に来ること、家屋の清掃や片づけ、除草に使う草刈機を使うのは初めてで、どのようにすればよいのかと不安に思う社員がまだ多くいました。
そのため、仕事の内容を説明するガイダンスの場では、そのような人たちの気持ちを受け止めつつ、実際に行う仕事の説明以外にも、これから行く市町村の震災前の様子から今の様子、その仕事を要請された背景などを説明することで、仕事のイメージを少しでも持ってもらうよう、心がけました。
実際に現地で活動することで、復興推進の仕事が持つ意味を感じて、職場に戻ってから周りの人に、今の福島県の様子や仕事の様子を伝えてくれることで、福島県への思いを共有してもらえるようになったと聞いています。2013 年に福島復興本社が組織化されてから今までに、のべ30 数万人の社員が復興推進の活動に参加しています。

― 実際に被災された方とお会いしての仕事が多いようですが、地域の方にはいろいろな見方があったのではないでしょうか。

事故により、突然住み慣れた家から避難をせざるを得なかった方々がどのような思いを持たれているか、一言では語れないです。私も厳しいご意見をいただきましたが、とにかく申し訳ない気持ちだけでした。地域の方にお会いする時はお詫びの気持ちを忘れずに、お話しは誠意をもってお聞きするよう、心がけていました。
私が特に忘れられないのは、避難された方のお宅の清掃・片づけにうかがった時の出来事です。避難されてから3 年の月日が流れていました。お家の中の清掃、片づけにはお家の方の立ち会いのもと、残すもの、片づけるものについて指示をいただくのですが、震災まで同居されていたお孫さんのぬいぐるみを指さされ、「孫は帰ってこないから片付けて」と言われたのです。その方のさびしそうな何とも言えない表情に、あらためて事故によってかけがえのないものを手放さざるを得ない現実に向き合うしかなく、心の中でぬいぐるみに「ごめんね」ということしかできませんでした。
実際に現地に赴任しての出来事でしたので、住民の方のご心情をより身近に感じながら、復興のお手伝いをしたいと、あらためて決意したことを覚えています。
2015 年秋からは、福島県内の復興を担当する外部機関に出向し、被災された事業者の方の事業再建に向けてのお話しを伺い、補助金などどんなお手伝いができるかという仕事に携わりましたが、震災後から今日までの気持ちを忘れないよう、取り組みました。

― お仕事やプライベートを通じて、福島県の方々とのつながりはどのように広がっていったのでしょうか。

3年4ヵ月の間、多くの方とお会いしました。仕事の上ではもちろん、J ヴィレッジなどで私たちのために、食事や清掃でお世話してくださった方がおられたから、自分たちが仕事をできたと思います。
また、地域のお祭りなどの行事に出かけたり、知り合いの方のお店のイベントをお手伝いしたり、食事や福島県産品の購入を通してお会いした方もおられました。
東京に戻った2 週間後に、いわき市で行われた「いわきサンシャインマラソン」のボランティアに参加しましたが、これも地元の方とお話ししたのがきっかけでした。
CDA の活動では昨年、東北支部に福島地区会が発足したことが前号のJCDA ジャーナルに掲載されましたが、私も福島のCDA の方から誘われ、参加させていただきました。
他の支部の行事に参加することはあまりありませんが、みなさまあたたかく迎えてくださり、新たな「つながり」の場をいただきました。
「夏の花火大会」
広野町で毎年夏に行われているサマーフェスティバルでの花火です。4000 発もの花火に地域の方の思いが込められています。

― 東京に戻られて、今後はどのように活動をされていかれたいですか?抱負ややってみたい事、展望をお聞かせください。


避難を続けられている方がまだ多くおられ、原子力発電所の廃炉にも長い時間がかかります。
この春、現地では放射線量の比較的高い帰還困難区域を除き、出されていた避難指示がほぼ解除されましたが、住民の方が早くお戻りになれるために、商店や病院などインフラの整備による新しい街づくり、住民の方が安心してお戻りできる環境づくりも必要と聞いています。
一方で、かつて勤務したJ ヴィレッジは、事故直後からの役割を終え『復興のシンボル』として再生されると聞いており、県が募る寄付金にわずかながらご協力しました。
これからも社員としてだけでなく、個人でも福島県を訪ね、赴任中のつながりを大切にしながら、復興のお手伝いをしたり、福島県の様子を友人や家族に話し続けます。もちろん福島県産品も購入し、現地の味覚を味わいます。
一方、CDA の活動ですが、キャリアカウンセリングの現場からはかなり遠ざかってしまいましたが、東京に戻ったこと、国家資格となったことから、この機会に少し計画的に勉強していきたいと思います。
福島での仕事は、まず相手の方のお話しをお聴きすることから始まりましたので、CDA 取得時に学んだスキルは役に経ったと思いますが、その経験をもとに、いつの日か実践を積みたいと思っています。 
「富岡町 夜の森の桜」
桜の名所である富岡町夜の森の桜。この春、7 年ぶりにここでイベントが行われ、多くの方が集まりました。

<取材を終えて> 
福島から東京へ着任してすぐのインタビュー。CDA の仕事はしていないんだけどね…と言いながら、他のメンバーから「兼子さんの報告メールは長い」と言われてたんだよね~。だって、いろいろ思いがこもってるから…と常にCDA マインドをフルに発揮していることが伝わってきました。
インタビュー後も何度も福島へ通う兼子さん。今度はどんなお話をしてくださるのか? 兼子さんの今後に期待です!

聴き手: JCDA 広報ボランティア  磯貝 和子

 兼子 伸彦プロフィール
1982年、東京電力株式会社に入社。支社で地域のお客さまからの電話を受けたり、料金計算の仕事を経て労務部門に。人事や研修の仕事も担当し、2006 年にCDA を取得。キャリア開発の研修の運営を担当。その後、内部監査の仕事を経て、2013 年10 月に福島県に赴任。福島県の復興に関わる仕事に携わる。2017 年2 月、東京に戻り、再び研修の仕事を担当している。


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